想作の話ですが。
何かを作るって楽しいですよね。
私は今日弟、互いの枡の中に炒り豆を入れて、箸で交換交換に入れまくって、速く相手の枡をいっぱいにしたほうが勝ちという、非常にシュールなゲームをしてました。そもそも箸で炒り豆を取っている時点でシュールですか。
何かを作るってとっても楽しいです。
私のときはルールを決めるところからスタートしてます。
で、いろいろなものを批判したり定評をつけたりしてますが。
うーんと、それは「自分の中でやっていけない」行動にそむいているからです。ぶっちゃけ、北方水滸伝許せないんだよね……。水辺物語は水滸伝ではないと想ってるし。
既存のものに自分のストーリーをくっつけるときは、「ここはこうだったらいいなぁ」って言う願望だけじゃないんです。
「どうやったらこいつが生かせられるか」とかいうのも考えていたりします。
三国志のアイデンティティは「誰もが互いと共存できないと想っている(だから支配するしかないという哀しい手段をとってしまう)」っていうのであったり。水滸伝は「魂がつながっている幻想に振り回されていながらも自分の生きられるどこかを探す(見つからないと知っていても追い求めてしまう)」とか。江戸時代のものは「支配の無意味さを抗った不利をして痛感しつつも逆らえない(だから誰か潰してくれとひそかに願っている)」とか。平安時代は「無駄ばかりの世界(そしてその無駄に自分もなりつつある)」とか。
プラスアルファ、考え付かないことではないけど、「こいつはどう見てたのかな?」っていうのを軽く考えているところから始まってます。
難しいことであったら、簡単に考える。簡単なことだったら難局にしてみる。
とかいう加工手段でもあります。
想い描いたものをかく。
そしてそれにはバリエーションがある。
想作というものを一言で表すなら「バリエーション」です。
なんでもありではない。
完全なオリジナルの話だと、どうしても「あの話は実はあれにつながってます」的なことはやりたいのです。コレは許してほしい。
詩吟のような美しい言葉を並べることは簡単ですが、どうせだったら美しいだけじゃない世界を作ってみようと想ってます。世界はそんなに綺麗じゃない。それは生きている私たち自身が知っていることです。今生きているこの世界にも何の秘密があるか知ったもんじゃない。
説明文って簡単ですよね。でも、その説明文って、本当にその世界に生きている私たちにとって必要なのかなぁ。
「信号」という概念がない世界で、「信号」を説明するのは難しいのです。
だから、難しい言葉はあんまり使わない。そして使っても、自分自身ですらよくわかっていなくてもいいと思ってます。
もう少しオリジナルの話を進めていくと。
一番の理想というか、いいなぁと想う創作は、「クレヨン王国」です。クレヨン王国を読みふけってから、自分の世界が広がったからですが。
一番最初に考えた創作小説は「宇宙人がやってきた」です。コレは国語のテストの問題であって、200字以内で書きなさいという、当時のN先生何を考えていたのといいたくなる問題でした。
でもここから広がったんです。ちなみにそのときの主人公も「ジュンヤ」でした。
そのあとから、「FNB(Fate な By chance)」でだいぶ苦戦して、「STAR TEARS」で翻弄されて、「DWOM(Dream World of Mirrors:夢世界の鏡)」で踊って、「相対性二主人公論」、「まほうつかいリリカ」を書いているわけです。
今も面白いです。
作るって面白い。
人の創作物も面白いですよね。私は大好きです。読むのも、そこの世界に入り込むのも。
創作モノに対していいなぁと思えるのは、共感性だと想います。共感性があるの。やさしいんじゃなくて。
でも、それって一点で書き記さなければならないものじゃないと想ってます。同じ風な話が果たして面白いのか。シリーズ物で読むとして、それでいいのか。
私はそこだけは、こう色を変えたいな、と想って創作してます。
(普段書く小説が暗くてすらすら書いた後、リリカみたいな明るい話がすらすら書けたのは、これのおかげです/ちなみに本にしようと想ったのは紗奈さんのおかげです)
創造性って必要です。思い描ける世界があるって、心に色を作れることだと想ってます。色がない世界がつまらないとかじゃないけど、あってもいいものはあっていいと思う。
想作が。好きです。一生涯、好きでいさせてください。
何かを作るって楽しいですよね。
私は今日弟、互いの枡の中に炒り豆を入れて、箸で交換交換に入れまくって、速く相手の枡をいっぱいにしたほうが勝ちという、非常にシュールなゲームをしてました。そもそも箸で炒り豆を取っている時点でシュールですか。
何かを作るってとっても楽しいです。
私のときはルールを決めるところからスタートしてます。
で、いろいろなものを批判したり定評をつけたりしてますが。
うーんと、それは「自分の中でやっていけない」行動にそむいているからです。ぶっちゃけ、北方水滸伝許せないんだよね……。水辺物語は水滸伝ではないと想ってるし。
既存のものに自分のストーリーをくっつけるときは、「ここはこうだったらいいなぁ」って言う願望だけじゃないんです。
「どうやったらこいつが生かせられるか」とかいうのも考えていたりします。
三国志のアイデンティティは「誰もが互いと共存できないと想っている(だから支配するしかないという哀しい手段をとってしまう)」っていうのであったり。水滸伝は「魂がつながっている幻想に振り回されていながらも自分の生きられるどこかを探す(見つからないと知っていても追い求めてしまう)」とか。江戸時代のものは「支配の無意味さを抗った不利をして痛感しつつも逆らえない(だから誰か潰してくれとひそかに願っている)」とか。平安時代は「無駄ばかりの世界(そしてその無駄に自分もなりつつある)」とか。
プラスアルファ、考え付かないことではないけど、「こいつはどう見てたのかな?」っていうのを軽く考えているところから始まってます。
難しいことであったら、簡単に考える。簡単なことだったら難局にしてみる。
とかいう加工手段でもあります。
想い描いたものをかく。
そしてそれにはバリエーションがある。
想作というものを一言で表すなら「バリエーション」です。
なんでもありではない。
完全なオリジナルの話だと、どうしても「あの話は実はあれにつながってます」的なことはやりたいのです。コレは許してほしい。
詩吟のような美しい言葉を並べることは簡単ですが、どうせだったら美しいだけじゃない世界を作ってみようと想ってます。世界はそんなに綺麗じゃない。それは生きている私たち自身が知っていることです。今生きているこの世界にも何の秘密があるか知ったもんじゃない。
説明文って簡単ですよね。でも、その説明文って、本当にその世界に生きている私たちにとって必要なのかなぁ。
「信号」という概念がない世界で、「信号」を説明するのは難しいのです。
だから、難しい言葉はあんまり使わない。そして使っても、自分自身ですらよくわかっていなくてもいいと思ってます。
もう少しオリジナルの話を進めていくと。
一番の理想というか、いいなぁと想う創作は、「クレヨン王国」です。クレヨン王国を読みふけってから、自分の世界が広がったからですが。
一番最初に考えた創作小説は「宇宙人がやってきた」です。コレは国語のテストの問題であって、200字以内で書きなさいという、当時のN先生何を考えていたのといいたくなる問題でした。
でもここから広がったんです。ちなみにそのときの主人公も「ジュンヤ」でした。
そのあとから、「FNB(Fate な By chance)」でだいぶ苦戦して、「STAR TEARS」で翻弄されて、「DWOM(Dream World of Mirrors:夢世界の鏡)」で踊って、「相対性二主人公論」、「まほうつかいリリカ」を書いているわけです。
今も面白いです。
作るって面白い。
人の創作物も面白いですよね。私は大好きです。読むのも、そこの世界に入り込むのも。
創作モノに対していいなぁと思えるのは、共感性だと想います。共感性があるの。やさしいんじゃなくて。
でも、それって一点で書き記さなければならないものじゃないと想ってます。同じ風な話が果たして面白いのか。シリーズ物で読むとして、それでいいのか。
私はそこだけは、こう色を変えたいな、と想って創作してます。
(普段書く小説が暗くてすらすら書いた後、リリカみたいな明るい話がすらすら書けたのは、これのおかげです/ちなみに本にしようと想ったのは紗奈さんのおかげです)
創造性って必要です。思い描ける世界があるって、心に色を作れることだと想ってます。色がない世界がつまらないとかじゃないけど、あってもいいものはあっていいと思う。
想作が。好きです。一生涯、好きでいさせてください。
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